050 キリシタン時代・潜伏キリシタン時代の信仰(4) = マルチリヨの心得 = ・・・!

禁教・迫害の嵐が、1597年(慶長2)のいわゆる『26聖人』の処刑に始まる殉教(マルチリヨ)の悲劇を生んだということは歴史的事実です。

特に江戸期の処刑は、できるだけ死を長引かせ、苦痛を与え続けて棄教をせまるとともに、民衆には恐怖の見せしめにする残酷なものになり、ついには穴吊しによる処刑が行われるに至りました。
そして、この禁教・迫害の250年余りの間の殉教者(マルチル)の総数は、推定4万人を越すともいわれます。

こうしたことは、裏を返せば、この時代のキリシタン信仰がそれだけ根強かったということを物語っています。

がしかし、通覧した『どちりなキリシタン』からは、世界にも例を見ない多数の殉教者が出たことへの得心できる理由を、残念ながら私は見いだすことができません。
もっとインパクトの強い教えが背景にあるのではないだろうか・・・・・・。

そんな折、「マルチリヨの理」、「マルチリヨの勧メ」、「マルチリヨの心得」、「マルチリヨの鑑」など、当時の教えを示す貴重な文書資料を収めた『キリシタン文学双書 きりしたんの殉教と潜伏 キリシタン研究第43輯』(尾原悟 篇 教文館 2006.12)を入手することができました。

目を通してみて、その内容に驚きました。

先ずは「マルチリヨの心得」です。
「キリシタンノ宗門ノ上ニ妨ゲル時分 ヒイデスニ付イテ成スベキ心持チヲ教ユル事」と標し、「去レハ キリシタンノ宗門禁制ノ時 其ノ心持チヲ教ヘラル パアデレ 入満無之処ニテハ 科ニ不成ル所作ヲモ・・・・・」と続きます。

少しでも理解できればと思って、無謀にも意訳を試みました。
マルチヨの心得

キリシタンの教えのうえに妨害があるときの、信仰について成すべき心がけを教えること

さて、キリシタン禁制の下、その心がけを教えられる司祭や修道士がいないところでは、罪にならない行動をも誤っているのでないかと咎めたり、また逆に罪になるはずのことをも罪にはならないだろうと、思い迷う者が大変多い。
故に、このことを明確にするために、今この書を編纂するものである。
そういうことで、この一巻四か条を書きあげたのである。

第一には、諸キリシタンは信仰をしっかりと保つことに専念すべきであるということ、第二には、信仰を背く罪となるふるまいはどのようなことかということ、ならびにどのような罪によって信仰を失うのかということ、第三には、信仰を背かないで成すことができる振る舞いのこと、第四には、マルチルになる程の事柄が生じたその時には、どのように心構えをすべきなのかということについてである。


第一 諸キリシタンは、信仰を堅固に
保たなければならないこと

そもそもキリシタンは、イエス・キリストの御教えを信仰として受け奉り、いざという時には、心中に信じている趣旨を、あるいは言葉に、あるいはふるまいに顕わさずにはおれないものである。
それは、御主デウス(神)が、人間に霊魂と肉体の二つを与えられたからである。つまり、この二様を貴び奉るべきことが最も道理の押すところである。
故に、霊魂をもっては常に心中に御教えの旨を信じ、肉体をもっては、必要な時に、その信仰を言葉に顕わし、または振る舞いにも顕わさずにはおれないのである。
これを指して、聖パウロは、「心には教えを信じ、外には肝心の時に、言葉と振る舞いに顕わす者たちは、きっと救われるにちがいない」と宣べられたのである。


第二 信仰を背き、罪となる振る舞い
は何かということ、ならびにどのよ
うな罪によって信仰を失うのかとい
うこと

一には、たとえ心中に他事なくても、人に向かって、「わたしはキリシタンではない」と否定することは、最も深い罪である。
さらに、言葉に出さなくても、異教徒であると見えるような外見と振る舞いをとることも罪である。
たとえば、数珠を摺り合わせるとか、これらの振る舞いは、全くもって行なってはならないことである。

二には、キリシタン禁制下、審問になって「おまえは、キリシタンなのか」と尋ねられた時、「そうです。わたしはキリシタンです」と答えないということはあってはならない。

三には、いずれのキリシタンにあっても、威力を恐れて、信仰を心より捨て、または言葉にもそのようなことを言い出した場合は、大変な大罪の罪である。
その上に、信仰をも失う。またたとえ言葉には出さなくても、心中でキリシタンの教えを捨ててしまった場合には、大罪の罪の上に信仰をも失うのである。
さりながら、心中には他事がないが、言葉で教えを捨ててしまった場合は、信仰は失わないけれども、大罪の罪からは逃れることができない。
同じく「キリシタンを転べ」と言い掛けられた時に、「ご指示にお任せいたします」だの、やれ「転びます」だの、やれ「わたしが悪いのではございません」などと答えることも、同じ罪である。

四には、誰からであっても、「おまえは、キリシタンなのか」と尋ねられたとき、「まったくキリシタンではありません」と答えることは、まったくもってあってはならない。
まして、審問時には、なおさら「わたしはキリシタンです」と答えよ。

五には 但し、本当の審問ではなく、ただちょっとした嘲りや、あるいはその折々の座興で「おまえは、キリシタンか」と尋ねられたときは、どような返答もしてはならない。
また、その嘲りを止めさせようとするために、何事もない様子で振る舞ったり、他の世間話で取り繕ったりすることなどは罪ではない。

六には、キリシタン禁制の下、たとえ心中に他事なく、言葉にも問題なくても、恐怖にひかれて異教徒が用いる守札を用い、神仏を拝み、その他他の宗教が用いるしるしによって異教徒であると見せようとすれば、大罪の罪である。但し、信仰は失わない。
もし、右にいった罪に落ちたことがある場合には、事の起こりより後悔しお許しを請い奉り、これから先は信仰を否定しないと気持ちを決め、適時に必ず告白しようと心構えして、以前の信仰に立ち戻らなければならない。


第三 信仰を背かず成すことができ
る箇条のこと

一には、如何なる場合もキリシタンを厳しく処罰し、ことごとく死罪にしようとして尋ねる時、もし我に向かって「おまえは、キリシタンなのか」と尋ねない間は、名乗りでないことはあってならないことではない。
但し、我に向かって尋ねたときは、「そうです」と答えなければならない。
もし、また御教えの師であるにもかかわらず、名乗りでないということで人々が悪し様に批判をし、また弱いキリシタンが力を落とす場合は、進み出て名乗らないということはあってはならないことである。
この先例は、聖セバスチャンに見えるのである。

二には、キリシタンについて審問し、捕縛しようとするに及んで、その場所を立ち去り他所に移り行くことは構わない。
これは、つまり信仰を否定しないようにするために退いたものであるからである。
これによって、イエス・キリストの御言葉にも、「この所であなたを迫害するのであれば、他所に逃げよ。」と宣べられている。但し、その所を立ち去るまいと思うことも、身のままである。
しかしながら、辛く苦しく困難で、信仰を堅固に保つことができそうにないと思う場合は、その所を立ち去るのは当然である。

三には、国里を替え、他所に移っていくことは構わないのと同じように、同じ所で隠れ人目につかないようにすることも、また罪ではない。
これはみな信仰を失うまいとする為であるからである。

四には、キリシタン禁制が激しい時は、ロザリオの効力のある物や御影などを隠し置くことは構わない。
これも信仰を否定すまいとする為の用心の一つである。

五には、右にあげた条は構わないけれども、寺院に参詣し、お守札を用い、異教徒の祈りをあげることは、まったくもってあってはならないことである。
それは、キリシタンノしるしを隠し、何の宗教か分からないようにするのは構わないけれど、確実に異教徒だと見えるように振る舞うことは罪であるからである。たとえば、山伏などに姿を変えることなどである。

六には、キリシタンを嫌う主人に奉公する者が、主人の前に出なければならない時、ロザリオその他の道具を主人の目にとまらぬようにしなければならない。あえて目立つようにはしてはならない。
故意に寺院または神仏を害することをしてはならない。それは、そのことがキリシタンへの妨害を引き出すことになるからである。
そもそも異教徒よりキリシタンが迫害されることを望むものではない。
但し、迫害されるときは、喜んでその苦難を耐え忍ばなければならないものである。


第四 マルチルになる程の苦難にあ
った場合は、どのようにすべきかと
いうこと

一には、マルチルになるためには死ぬことが肝要である。
まず一には、人より害されることを喜んで耐え忍ぶこと。たとえまた百苦千難を耐えたとしても、死なない間はマルチルではない。
死ぬというのは、首を切られ、焼き殺され、磔にされて殺されるだけではない。たとえば、食べ物を与えられないで餓死するに至ったり、流罪となっているうちに死んだり、または牢での苦難に堪えかねて死んだり、その他どのような死に方でもあれ、辛労難儀の結果死んだのであればマルチルである。

二には、害(殺)される者が知恵分別のある者であるならば、その死罪という処罰も拒まず、喜んで堪えて受ける場合はマルチルである。但し、その処罰を嫌がりながら死んだ場合は、マルチルではない。
分別もない子供であるなら、拒むような心はないことから、マルチルである。
たとえば、母親の乳房をふくむその子をキリシタンであるとして母親とともに害したときには、母親がその死罪をデウスに対し献上して受けようと思うのであるから、マルチルである。その子も共にマルチルである。
たとえ子供がまだ洗礼を授かっていないか、または胎内にあったとしても、その母がキリシタンであるために害されたのであれば、共にマルチルである。

三には、 死罪となる罪名が、キリシタンであるとして処罰されるか、または(神に対する)善を勤めたとしてか、(神に背く)悪をしなかったということで害されれば、これもマルチルである。

四には、右の理に基づいてみると、もし人がキリシタンであるがために財宝を失い、恥辱を受け、責めさいなまれ打ち殴られる場合には、その善行はまことに甚だ深い。
さりながら、身命を失わない間はマルチルの位には決して至らない。
それは、命がありながらマルチルになるということは全くないからである。
また、キリシタンであるとして処罰されるされるのに、防戦することはあってはならない。
もし、その者が防戦したうえで打たれた場合には、マルチルではあることは決してない。
それは、デウスに対し献上して喜んで死ななかったということによる。
だから、聖マウリティウスは数千騎の大将てあったけれども、一切防戦されず、武器をを投げうってマルチルになられたのである。
もし、またキリシタンの家来を使用する主人が、勤めに手落ちがあるとして死罪となる時、そのキリシタンがその処罰を喜んで受けたとしても、これはマルチルではない。なぜなら、その処罰の罪名がキリシタンであることによるのではなく、また善を成したことでによるものでもないからである。

五には、マルチルになる人が、未だ告白していない大罪があると気づけば、告白する機会に先ずはその罪を申しあげなければならない。
告白する機会がありながら、告白しない場合はマルチルではあることは決してない。
ただし、その所に司祭がいない場合は、致し方ない。
神父がいたとしても、妨げがあって告白することができなかった場合は、犯した罪を後悔し、これから先たとえ命を保ったとしても、この罪を二度とデウスのお恵みをもって犯すまい決心して、そして死んだ場合は、マルチルの善行によって諸々の罪の赦しを得、洗礼を受けたときのように、煉獄の苦しみをも必ず赦されるであろう。
したがって、マルチルは血の洗礼というのである。
また告白していない罪があったとしても、現在この時の責め苦に取り紛れて思い出さず、後悔すべきことをも失念したのであれば、デウスに対して身命を投げうつ善行によって、天国に至ることには少しも支障がない。

六には、もしキリシタンを顕さない、又は罪に落ちないという理由で害される人があれば、これは当然マルチルである。 

七には、神仏を崇拝せず、異教徒のしるしだから守札は用いないという理由で害されれば、マルチルである。 

八には、講義をし、あるいはキリシタンへの入信を勧めたという理由で害されれば。マルチルである。

九には、マルチルに成る人が当座の責めを恐れて信仰の揺らぎ動揺するのをみて、傍より声をかけ励ましたという理由で害される場合は、それはマルチルである。
同じく、マルチルに成る人の力の不足をみつけて合力したという理由で害されれば、これもマルチルである。

十には、マルチルの死骸を納め、遺骨を敬うという理由で害されれば、マルチルである。

十一には、キリシタンを広める講義者などを抱え置いた、あるいは隠し置いたとの理由で害されれば、マルチルである。
また、講義者、伴人をキリシタンだからと、その大切さに惹かれて抱え置き、もてなしたという理由で害されれば、マルチルである。

十二には、キリシタン審問のとき、ほかのキリシタンを明らかにせず、あるいは講義者などを明らかにしなかったとの理由で害されれば、マルチルである。

十三には、キリシタンへの処罰が行われるとき、他所へ逃げ去り、隠れて人目を避けることは構わないけれども、マルチルの望みに燃え立ち、進んで出頭して害されれば、これはまさに勝れたマルチルである。
したがって、その徳もとても重い。それは何故かというと、あらゆることの中で一番捨て難い命を、自由の上で自ら喜び勇んでデウスに捧げるからである。
このことについて迷い無くするために、司祭のいるときには、相談しなければならない。
もし、司祭がいなければ心の望むところに従わなければならない。
但し、二つの事については心得ておかねばならない。
一には まったく自力で解決しようと思てはならない。ただ謹んでデウスを信頼し奉り、身を捧げ命を捧げたいと思えば、これを成就するために強い覚悟をお与え下さいと乞い願わなければならない。
二には、現世の評価を拠り所としてはならない。ただデウスの誉れを第一とし、そして自分の霊魂が天国に至る道であるからと思わなければならない。

十四には、マルチルが近づいたと感じた時に、成すべき準備というのは、まず告白でなければならない。そのことが叶わなければ必ず後悔するであろう。
そのために犯した罪を思い出さなければならない。
次にはデウスの恩寵をもって、今より後、大罪に落ちまいと思いを定めて、お許しを乞い申し上げなければならない。
またマルチルの苦しみを受ける恩寵と勇猛精進の心を与え給えとお願い申し上げよ。
死罪を命ずる人、また執行人などに恨みを抱いてはならない。結局彼らの行為をもって直ぐに天国に至ることができるのであるから、彼らをも真の道にお導き下さいとデウスにお頼み申し上げなければならない。 
呵責を受ける間は、イエス・キリストの御受難を目前に想い浮かべなければならない。
デウスをはじめ、聖母マリア、諸天使、聖人が、天上より我が戦いをご覧下さり、天使は天国の栄冠を授け、我が霊魂が出ることを待ちかねておいでになると観なければならない。
この時に及んでは、デウスより格別の御助力が必ずあるので、深く心強く心を持たなければならない。
また出来る場合は、その場に居合わせる人々の霊魂が救われる話を少しであっても言わなければならない。
たとえば、キリシタンノ教えの他に後生を助ける道はない、自分は今、この御教えが確かであるという証のために命を投げうつものである、この道により限りない喜びを受けるので、これに過ぎたる歓喜は他にはない、などと言うことを、言葉に花を咲かせて言わなければならない。
しかしながら、これらの事は、言えずできないことと思ってはならない。
その時に臨べば、デウスが各人の心中に必ず教え給うので、その教えに導かれてそのようにはならない。
略す

なんとか、「心得」の大まかを把握しましたが、信仰に殉ずるための心得の教えとはいえ、なんともおどろおどろしく感じる内容です。
多数の殉教者を生んだ背景の一端が垣間見えた感じです。

因みに、「どちりなキリシタン(キリシタンの教え)」では、主イエス・キリストがご在中、弟子たちに教えられた事の中で、特に大切な事は、一つには「信仰」を持つ(神を信ずるという善行をおこなう)こと、
二つには「信頼」する(希望を持つという善行をおこなう)こと、
三つには「正しい生活態度」を守る(愛という善行をおこなう)こと、
としています。
また、「罪」は神に対して乱暴(狼藉)を行うことであって、それには「小罪」と「大罪」があり、「大罪」については、根本となる罪として、「高慢(おごり高ぶること)」、「貪欲(貪欲であること)」、「邪淫(不正な情事を行うこと)」、「瞋恚(シンイ 腹を立てること)」、「貪食(食をむさぼること)」、「嫉妬(嫉妬すること)」、「懈怠(怠惰であること)」の七つを挙げ、「大罪とは命を絶つ罪という意味である」としています。

上記「マルチルの心得」の中で、大罪と信仰を述べている箇所がいくつかありますが、「どちりなキリシタン」はそれらの関係を次のように述べています。
霊魂の命は神の恩寵によって授かるものであって、大罪の罪はその恩寵を霊魂より取り離すことから、このようにいうのである。
しかしながら、霊魂の命は永遠であるから、大罪を犯したからといって、死に果てると思ってはならない。
ただ霊魂の命となる恩寵を失うために、これを指して「死ぬ」というのである。
(大罪の罪を犯したとき、信仰も失うのか。)
そうではない。
右に言ったように、大罪の罪によって神の恩寵を失うといっても、信仰は失われない。
というのは、信仰を失うというのは、信仰そのものをすべてを失うことである。
であるから、大罪の罪を犯してもキリシタンを捨てることにはならない。
「信仰」の”奥深さ”並びにキリシタンにとっての”重み”を感じ取ることができます。

ところで、狭間氏は、「キリシタン信仰におけるマルチリヨと「個」についての一考察」で、「マルチヨの鑑」(模範を説いた文書)は慶長年代(1596~1614)、「マルチリヨの勧メ」(意義を説いた文書)は元和年代(1615~1623)、「マルチリヨの心得」(心得を説いた文書)は寛永年代(1624~1644)と、その作成年代を推定しています。
なお、前回取り上げた「どちりなキリシタン」の刊行は1591年(天正19)です。

「勧め」、「心得」、「鑑」の三つの文書(「マルチリヨの栞」といわれている。)は、寛政年代初期の浦上崩れの際に長崎奉行所が没収した写本です。
まさに迫害・弾圧が強まる状況下で、あくまでもキリシタン信仰を全うする、すなわちイエス・キリストと同じように「ご大切」(愛)のために自分のすべてを捧げ尽くすという、マルチリヨ(殉教)の精神を涵養させたものということなのです。

そこで、この時代の歴史的状況を理解するために、主な歴史的事実を確認して見ました。
年表は、三上 茂さん作成の『みこころネット』掲載の「キリシタン史年表」から抜粋させていただきました。
《 キリシテン史 年表 》

○付きの西暦が鑑、勧め、心得の推定作成年代幅です。
・1549年(天文18) フランシスコ・ザビエルの一行
              鹿児島に上陸
・1550年(天文19) ポルトガル船、初めて平戸に
              入港
・1551年(天文20) フランシスコ・ザビエル、山口
              で大内義隆に会い、布教の
              許可を得る
・1557年(弘治 3) 毛利氏、大内義長を滅ぼす
・1558年(永禄 1) 木下籐吉郎、織田信長に仕
              える
・1559年(永禄 2) 織田信長上京し、将軍義輝
              に謁する。
・1562年(永禄 5) 大村純忠、ポルトガル人のた
              め横瀬浦を開港し、教会堂を
              建てる
・1563年(永禄 6) 三河一向一揆起こる
              高山右近(ジュスト)受洗
             ジョアン・フェルナンデス修道
              士、生月島に十字架を建て
              る(1000人の信者参加)
・1564年(永禄 7) 小西隆佐(ジョーチン)、小西
              行長(アゴスティニョ)受洗
・1568年(永禄11) 信長、足利義昭を奉じて入
              洛する
・1569年(永禄12) 信長、ルイス・フロイス神父
              に京都居住を許可し、布教
              を許す
・1573年(天正 1) 信長、将軍義昭を放逐し、
              室町幕府滅亡
・1575年(天正 3) 信長、家康と三河長篠に武
              田勝頼を鉄砲隊威力をもっ
              て破る
              都四条坊門姥柳町に南蛮
              寺 (昇天の聖母教会)建立
・1580年(天正 8) 柴田勝家、加賀一向一揆を
              平定する
              信長、安土城下に教会堂の
              敷地を与える
・1582年(天正10) 本能寺の変、信長死去
・1583年(天正11) 賤ヶ岳の合戦
              秀吉、大阪城下に教会堂敷
              地を与える
             長崎にミゼリコルジア(慈悲)
              の 組が創立
・1584年(天正12) 有馬晴信、浦上をイエズス会
              に寄進
              黒田孝高(如水)、高山右近
             の勧めで受洗
・1585年(天正13) 秀吉関白となる
              秀吉、高山右近を播磨明石
             に移す
              遣欧使節ローマに入り教皇に
              謁す
              イエズス会、日本教区が独立
             し本部を設置
・1587年(天正15) 秀吉、高山右近に棄教を勧
             告、右近棄教を拒み追放され
             る
              秀吉箱崎にて伴天連追放令
             発布
              大友義統棄教、キリシタン弾
             圧を始める
・1588年(天正16) 秀吉、茂木、長崎、浦上の地
             をイエズス会より没収
・1589年(天正17) 秀吉、耶蘇教を厳禁し、宣教
             師を長崎に追放、京都南蛮
             寺を焼く
・1590年(天正18) 秀吉小田原城を攻略、北条
             氏滅ぶ
              天正遣欧少年使節が長崎に
             帰着、金属活字、印刷機を持
             ち帰る
・1591年(天正19) 秀吉、朝鮮征伐を命じる
             加津佐のコレジヨ、大村のノビ
              シアードを天草河内浦に移転
              同時に印刷機も移転、出版を
              始める
・1594年(文禄 3) この頃よりイエズス会と他会
             派の対立表面化する
○1596年(文禄 5) スペインの三本マスト帆船
             サンフェリペ号、土佐浦戸沖
             に漂着
              秀吉、キリシタン弾圧実行
○1597年(慶長 2) オランダ船初めて平戸港に
             入港
              松浦法印、キリシタンを禁止
             する、度島のキリシタン誅滅
              二十六聖人、長崎西坂で殉
             教
○1598年(慶長 3) 秀吉没す
○1599年(慶長 4) フランシスコ会、江戸に会堂
             を開き 関東布教開始
○1600年(慶長 5) 関ヶ原合戦
○1601年(慶長 6) 家康、宣教師の京長崎居住
             を許可
               五島に二人のイエズス会士
             が来て布教、1500人受洗
               木村セバスチァン、日本人
             として初めて司祭となる。
               中浦ジュリアン、伊東マンシ
             ョ、マカオに留学(3年後帰国)
○1603年(慶長 8) 徳川家康征夷大将軍となり
             江戸に幕府を開く
○1605年(慶長10) 長崎が幕府の直轄地(天
             領)となる
○1607年(慶長12) 五島領主玄雅、棄教し、教
             会堂を破壊、宣教師を追放
○1609年(慶長14) オランダ船2隻平戸に入
             港平戸にオランダ商館設置
               ガスパル西玄可(がすぱる
              様)、妻ウルスラ、長男ジョ
              アン、生月において殉教
○1610年(慶長15) 全国イエズス会キリシタン
              22万人
○1612年(慶長17) 幕府重臣本多正純の家来
             の岡本大八事件発覚
               幕府、キリシタン禁教令を
             発布
○1613年(慶長18) 伊達政宗、家臣支倉常長
             をローマに派遣
               幕府、伴天連追放令を発
             布
               イギリス、クローフ号初め
             て平戸入港、アダムス、平戸
             に来る
               平戸にイギリス商館設置
○1614年(慶長19) 禁教令、このころのキリシ
             タン30万人
               高山右近はじめ宣教師、
             信者ら148人をマニラ、マカ
             オに追放(大追放)
               大阪冬の陣
○1615年(元和 1) 大阪夏の陣、大阪城落
             城、豊臣氏滅亡
○1616年(元和 2) 家康没す
              幕府キリスト教を禁じ、唐
             船以外の外国船の入港を
             平戸、長崎に限定
○1618年(元和 4) 宣教師への宿提供を禁ず
              る触れが出る(禁を犯した
              者は火刑に処し、宣教師の
              発見者には銀30枚を与え
              る
○1619年(元和 5) 京都四条河原でキリシタン
              52人を火刑に処す
○1621年(元和 7) 崎津においてコンフラリア
             の組織
○1622年(元和 8) キリシタンに対する迫害更
              に強くなる
               ジョアン阪本左衛門、ダミ
              アン出口木吉、中江島にお
              いて殉教
               この年中江島において殉
              教者多数壱岐のキリシタン
              代表アウグスチノ太田、郷
              の浦で殉教
               将軍秀忠、鈴田とクルス町
              の牢に投獄されているキリシ
              タンを、皆殺すように命じ、カ
              ルロ・スピノラ神父ら55名、
              長崎西坂で殉教 (元和の
              大殉教)
○1623年(元和 9) 将軍秀忠が隠居し、家光将
              軍となる
               江戸芝でキリシタン多数処
              刑
               平戸のイギリス商館閉鎖
○1626年(寛永 3) 水野河内守守信、長崎奉行
              に就任
               キリシタン禁圧が強化
               長崎で絵踏開始
○1627年(寛永 4) 長崎奉行管内キリシタン34
              0人を捕縛
○1628年(寛永 5) 幕府、オランダ商館を閉鎖
              し、船を抑留、来航のポルト
              ガル船も抑留
               アントニオ神父ら21人西坂
              で殉教
               五島藩キリシタン迫害を強
              化
○1629年(寛永 6) 竹中釆女正、長崎奉行就任
○1631年(寛永 8) 竹中釆女正、アントニオ石
              田神父、バルトロメ・グティエ
              レス神父、ヴィセンテ・カルヴ
              ァリオ神父らを数日間にわた
              って雲仙地獄で熱湯責め
○1632年(寛永 9) 曽我又左衛門と今村伝四郎
              が長崎奉行となり、穴吊しの
              拷問を行う
               この年、18人の神父とほぼ
              同数の修道士が殉教 
               フェレイラ神父だけが拷問6
              時間後に棄教、沢野忠庵と
              して20年間奉行に仕えた
○1634年(寛永11) 将軍家光、ポルトガル人収
              容所として長崎出島築造を
              命じる
               2年後の1636年に完成
○1635年(寛永12) 幕府、鎖国令を出し、日本
              人の出入国禁止
               寺請制度全国的に実施
               家光、287人の混血児をマ
              カオに追放
○1637年(寛永14) 島原・天草の乱勃発
               金鍔次兵衛神父、西坂で穴
              吊りの拷問を受け殉教
○1639年(寛永16) ポルトガル船の来航禁止
               鎖国令公布
○1641年(寛永18) 平戸のオランダ商館、長崎
              出島に移される
○1642年(寛永19) 天草に絵踏と人別帳が制度
              化されて実施
               奥州潜伏キリシタン探索
・1651年(慶安 5) 3代将軍家光没、家綱4代将
             軍となる(在職 -1680)
・1657年(明暦 3) 大村藩でキリシタン608人を
             召捕(うち牢死78人)
・1658年(万治 元) 大村牢の131人、放虎原で
             獄門 残り280人、長崎その
             他で処刑
・1664年(寛文 1) 尾張藩内キリシタン207人を
             処刑諸藩、代官所に宗門改役
             の設置を命じる
・1671年(寛文11) 宗門人別改帳の作成布達
・1786年(天明 6) 宗門人別改帳の寺社奉行提
             出を諸国に命じる
・1797年(寛政 9) 五島藩に大村藩からのキリシ
             タン農民公式移住始まる
              1799年までの3年の間に約
             3000人以上が移住
・1805年(文化 2) 天草下島大江、崎津、今富、
             高浜で5000人の潜伏キリシ
             タン発覚
・1853年(嘉永 6) ペリー軍艦4隻を率いて浦賀
             に来航
・1856年(安政 3) 浦上キリシタン80人発覚
・1858年(安政 5) 日米修好通商条約締結
・1865年(慶応 元) 大浦天主堂竣工
              プチジャン神父と浦上の潜伏
             キリシタンが出会う
・1868年(明治 元) 五島、水の浦のキリシタン農
             民32人投獄
              五島、久賀島のキリシタン農
             民200人逮捕、うち42人牢死
              伊王島のキリシタン21名佐
             賀に護送され入牢
              五島、頭カ島の住民十数人の
             戸主全員逮捕され拷問
              ド・ロ神父長崎に上陸
・1869年(明治 2) 浦上のキリシタン3400人余
             全国各地に配流(浦上四番崩
             れ)
・1870年(明治 3) 五島、鯛の浦のキリシタン6
             人惨殺される
・1871年(明治 4) 戸籍法改正
              宗門人別改を廃止
・1873年(明治 6) 切支丹宗禁制の高札撤去
              九州各地の切支丹宗禁制の
             高札撤去
              浦上キリシタン釈放される
・1879年(明治12) ド・ロ神父、外海地区担当司
             祭として着任
・1882年(明治15) ド・ロ神父、出津教会堂建設    

【三上 茂さん作成『みこころネット』の「キリシタン史年表」から抜粋】


「マルチリヨの栞」と呼ばれる三書は、キリシタン史における弾圧時代、日本人キリシタンの間で愛読され、あるいは「どちりなキリシタン」を補完・強化するものとして司祭や修道士から教示されたのでしょうか。
たとえば、1596年(文禄5)、秀吉によるキリシタン弾圧の最初である、いわゆる26聖人の殉教に関わってもそうしたことは伺われます。
秀吉は、宣教師たちの調査と、都にいるキリシタン全員の名簿作成を石田三成に命じます。秀吉は、これによって、キリシタンたちは恐れをなし、自らの信仰は隠し静かにするだろうと考えたようです。
しかし、『殉教 日本人は何を信仰したか』(山本博文 光文社新書)で、その実際が、スペイン人の商人アビラ・ヒロンが著した「日本王国記」に次のように記されているそうです。
この仕事を遂行するために命ぜられた連中と、これを引き連れた治部少輔(石田三成)とが、市中をあちこちかけ廻り、キリシタンを訊ね廻り始めると、彼らがいったい何を目指しているのかということが知れたかと思うと、老若男女を問わず、ある者は首にコンタス(数珠)をかけ、ある者は聖像を手にささげて、口々に己のキリシタンの名を大声で告げながら集まって来た人々の数は大変なものだったので、そのために行った書役どもも、書こうにも書き終えないくらいであった。だから、ほんの僅かな間に、三千以上の名を書きとめたが、その中には大勢のお歴々の子弟が混じっていた。
つまり、キリシタンたちは恐れをなして信仰を隠すどころか、役人のもと我も我もと自分の洗礼名を名乗り集まってきたというのです。
「どちりなキリシタン」や「マルチヨの栞」などの教えは、当時の民衆の間に相当深く理解され、浸透していったということなのでしょうか・・・。
まだよく分からないところがあります。

さらに、調べてみたいと思います。



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